九州の経済導き70年 九経調のあゆみ

九州の経済活動を数字で読み解き、地元企業や行政に一歩先を見据えた地域づくりを提案してきた公益財団法人九州経済調査協会(九経調)は2016年、発足70周年を迎えました。
1946年、敗戦直後の失意と混乱の中、「郷土九州の再建には、九州を統計的に正しく把握することが必要だ」と立ち上がった地元財界人らによって、九経調は誕生しました。以来一貫して九州に寄り添い、どうすれば九州が元気になるか、日本やアジア、世界の中で九州はどうあるべきかを研究し続けています。研究をまとめた九州経済白書は、発刊50号を数えます。
今、九州・沖縄・山口の9県がそれぞれの得意分野を生かした産業分野を持ち、協力、競争し合えるのも、九経調の先見的な経済分析が導いた地域づくりのたまものと言えるでしょう。
戦後九州の浮揚、鍵は「統計」

九経調の発足は1946年10月。波多野鼎・九州大教授、野田俊作・福岡県知事、門川暴・日本銀行福岡支店長が発起人となり、当時、福岡市の西中洲にあった福岡商工会議所で創立総会が開かれました。その時掲げられた「設立の趣旨」の冒頭には、こうあります。
「祖国を権力者の偽瞞(ぎまん)と盲目な精神主義から救うためには、国民経済の科学的な究明が絶対に必要である。調査の不備と統計の貧困が敗戦祖国の大きな特徴であったことは決して偶然ではない。国民生活の科学的統計に基づく正しい判断のみが祖国再建の基礎である」
九経調創設の発端は1946年春、占領軍が九州の主力火力発電所三カ所を戦後賠償として取り上げようとしたことだったと、創設30年の節目に古賀政久 九州・山口経済連合会常務理事(当時)が振り返っています。古賀氏は1946年当時、日本発送電株式会社九州支店の調査係長。三つの火力発電所を失うと、日本はポツダム宣言に掲げられた「平和的生活」を維持できないことを数字で示し、占領軍に方針転換させなければなりません。古賀氏は日本銀行福岡支店や通産局からデータを集め始めます。その連携が九経調構想へと発展し、創設に至りました。
アジアのゲートウェイとして

1970、80年代、高速道路や新幹線、空港などの交通インフラが整った九州には電子部品工場が進出し“シリコンアイランド”と呼ばれるまでに成長しました。
しかし1985年のプラザ合意で急速な円高が進み、日本は円高不況に陥りました。これを機に企業は海外、特に東アジア地域に進出します。九経調も地元企業の進出を後押ししようと、1986年から年1回、九州・山口の企業の海外進出一覧を発刊しています。ピークの1995年には140社が進出しました。
21世紀に入ってからも「アジア」は大きな調査テーマの一つです。2006年には、アジアを中心とした海外と九州の半導体関連産業を仲介する組織として「アジア半導体機構」を経済団体や行政と立ち上げました。各国の半導体関連団体とネットワークを結び、企業間の国際ビジネスへとつなげています。
九経調は調査研究を通した施策提案が強みですが、近年ではビジネスマッチングや製品開発支援など実践的なサポートにも力を入れていて、セミナーなどを開いています。2012年にはビジネス図書館「BIZCOLI」を開所しました。九経調や会員がこの70年間で蓄積した知識や人脈を交換し発展させる、創造拠点として活用されています。

九経調では創設100周年を見据え、九州地域の未来を拓く「100年シンクタンク」となるべく、新しい30年を歩み始めました。
九州・山口密着のシンクタンクとして培ってきたノウハウと実績、産学官のネットワークは、20万点に及ぶ図書、統計、調査報告書などとして、BIZCOLIに蓄積されています。これらを礎として、今後はビッグデータを活用した新たな情報サービスやデータ解析を加えながら、政策提言力を一層高めていきます。
九州・山口の経済を100年前から振り返り、さらに次の100年を見通すことができる。そんなシンクタンクを目指し、力強い郷土づくりの指標となることを誓います。