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  • ★ 氷壁(2011/08/04)

    氷壁

    井上靖

    新潮社

    辰巳浩(2011/08/04 掲載)

    最近はしばらく登っていないが、私の趣味のひとつに登山がある。九州の山だけでなく、四国や中国の山々、さらには北アルプスや南アルプスなどにも登った。その中でもとりわけ印象深いのが20代の頃に単独で登った八ヶ岳である。
    八ヶ岳は、長野県と山梨県の県境にそびえる山塊であり、最高峰の赤岳は標高2,899mである。私は長野側の玄関口である茅野駅からアクセスし、初日は八ヶ岳山荘という山小屋に泊まることにしていた。ところが、列車が駅に着いた時には山小屋に向かうバスは既になく、タクシーを利用するしかなかった。当時の私にとってそのタクシー代は高額であり、私は相乗りをしてもらえる方を駅で探した。ようやく見つかったのは初老のご夫婦だった。タクシーの中では登山の話題でご夫婦と話が弾み、楽しい時間を過ごさせていただいた。そして、タクシーが目的地に着き、割り勘で料金を精算しようとしたところ、「このお代は私たちが持ちます。その代わり、あなたは井上靖の『氷壁』という小説を読みなさい」と言われ、私はその言葉に甘えることになった。
    翌朝、私はひとり夜明け前から登り始めたが、山はガスに覆われ、雨が降りしきる中での山行となり、赤岳頂上に立ったものの、視界はゼロであった。その代わり、下山する次の日の朝、空は見事に晴れ渡り、山小屋を出発したバスの窓から見た北アルプスの山々はまさに「青い山脈」で、今でも心に残っている。
    さて、その後、私はすぐに本屋に走り、ご夫婦に言われた通り、『氷壁』を手にした。この小説は長編であったが、読み進むに従い、心の高ぶりを抑えきれなくなり、一気に読み切ってしまった。登山中の死、切れるはずのないナイロンザイル、一人の人妻をめぐる恋愛感情、そこには登山を題材としつつも人間の心模様が巧みに描かれたドラマチックな世界が展開されていた。そして、最後に主人公がメモに記した言葉、これには心が震えた。
    この小説は昭和30年代の作品であるが、今でもその新鮮さは失われておらず、登山を知らない方にもおすすめの一冊である。

    プロフィール

    辰巳浩

    福岡大学工学部社会デザイン工学科 教授