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ゲーテの耳
中沢新一
河出書房新社/1992
石田陽介(2008/11/05 掲載)
一冊の本の扉の内側に己の意識を深く潜らせながら、心ゆくまで神話的時間を回遊していく読書の悦楽は、古より人を捉え離さない。書物というものが人々へと放つ魅力の源泉とはいったい何処にあるのだろう。
本書の著者である中沢新一氏は、宗教学者・人類学者の立場からシャーマニズムについて深く軽妙な筆致で言及し続けている。「テレプレゼンス──電話,夢,霊媒」というエッセイの中では、「電話というのはテレプレゼンス現象を技術的に実践した非常に神秘的な発明品であり、テレプレゼンスというのは時間と空間に対する人間の知覚を変化させて,現実とは異なる世界の通路を開くものである」と記している。テレプレゼンスとは、遠くにあるはずのものが生々しくあたかも眼前にあるという感覚を表わしているのだが、その古くはシャーマンの技術に代表されるものであり、これを身につけた人間は、自分の心の内部に入っていくと同時に、人間と石のようにまったく違うと思われているもののあいだにつながりを見出して、自分の心の中でそれが一つに解け合ったり、浸入しあったりするような状態を体験するようになると中沢氏は述べているのだ。だとすれば、とわたしは思わずにいられない。書物という器にこそ、このテレプレゼンス機能は極めて色濃く宿っているのではないのだろうかと。読書という行為を人間の身体機能において読み解こうとするとき、わたしは人類最古のテクノロジーであるシャーマニズムという文脈においてこれを捉え直そうとする者である。
人と動物、生物と無生物とがおおらかに語らいあう宮澤賢治の童話作品に触れたとき、或いは母が子へと優しく絵本を読み語っていく光景に出会ったとき、わたしは遠く旧石器時代から引き継がれたシャーマニズムの発露について思いを馳せずにはいられない。そもそも読書とは、一冊の本を背に読者の前へと立ち現れる物語の登場人物、或いは筆者の真摯な肉声へと読者が向かい合っていく異次元における他者との対話の場に他ならない。本という装置を持って人はときに他者の物語と己の物語を深く混淆させ、新たに自我の発酵を促してきたのだ。21世紀を迎えた今日でさえも、いやこうした時代のためにこそ、シャーマニズムとしての読書文化は重要なリベラルアーツとしてわたしたちへと営々と託され引き継がれてきたのではないだろうか。